A Perfect Night For Bananafish

だがそれを語るには人生は短すぎる

なぜ書くのか

Blog(って言葉はあまり好きじゃないが)という変なサービスが登場してきて、なんだか流行っているようだし、それにはワケがあるのだろうと触ってみた。
それに一応ITを取り扱うような業界にいるわけだし、何かの足しにはなるんじゃないかと思ったわけだ。
あとは文章を書く練習だな。他人が読むという前提を置くわけだから、ある程度推敲はするワケで。
さて次は、何を書こう?となる。
Blogで商売しようと思っているわけでもないし、研究や仕事なんてする気もない。
結局一個人の凡庸で怠惰な毎日の出来事や妄想を綴ることになるのだが、そんなことわざわざ公開するでもないだろう。自分のために書くなら、カギのついた日記帳でも買ってそれにダラダラ書いていればよい。
では、なぜ公開するのか?
僕の場合、他人のアクションが欲しいのであろう。
アクションといっても、コメントくれとか、紹介した本を読んだり映画を見て共感しろってことじゃない。もちろんそうしていただけるなら歓迎はするが。
他人の共感を求めて、自分の居場所確認するほど落ちぶれちゃいない。
僕の文章を読んだとき、読み手の脳の中で何かが動く。これでよい。これが僕の求めるアクション。
「つまんね。」「ふーん。」「あるある。」「俺ならこうする。」「この話は誰か同じこといってた。」
なんでもいい。

僕のニューロンの発火が文章というメディアを通じて他人のニューロンの発火を促す。つまり人類知へ影響を及ぼしうるってステキじゃない。こうしてノイズとも言える信号を発信し続けることでバタフライ効果のように嵐を呼ぶかもしれない。炎上を起こしてしまうかもしれないけど。
「自分を表現したいから」という人もいるだろうが、むしろ自分を表現し公開することで、人類進化への方向を模索しているフェーズだと思うのだ。表現者はそれを本能でやっている。ネットの登場はルネッサンスのような表現のビッグバンだと思う。

Blogに限らず五感で感じうるもの、絵画、動画、漫画、音楽、小説、論文、スポーツ、料理、プログラミング・・・様々な表現形態を用いてお互いを刺激しあうことで、面白いものは残り、つまらないものは風化する。自然淘汰、組織化が起こり、種の最適化へ進む。
一方、新しい表現形態が出てくると、必ず警鐘を鳴らす人が現れる。正しい方向へ導くために注意を促す人もいれば、自分に都合が悪いから批判してしまう人もいるだろう。
しかし、これは種の保存本能から来るものだと思う。
新しい表現は進化系統樹の分岐点になりかねないからだ。現存する種とは違うものへ変容することへの恐怖だ。
既にデジタルデバイドという現象が起こり始めている。単に時間の問題で、半世紀もすればみなITに触れ、この現象はなくなるだろうか?
ITを使いこなせる人類と使いこなせない人類に二分していくことは、道具や言葉を使いこなす人間とそうでないサルに分かれていったような分岐点に似ているのではないか?渦中にいると、そのゆるやかな変化は気づかないかもしれないが、大局的に見ると、人類は今やはり相転移の段階に来ていると思うのだ。

で、僕は何を言おうとしてたんだっけ?
統計的なデータをもとにしたわけでもなんでもないトンデモな記事になってるが・・・あ、そうそう。
なんで書くかって?そりゃ暇つぶしだよ。
人生なんて暇つぶしみたいなもんだ。